Kathy's Song

2012年2月19日

備忘録のつもりで始めたこの日記も,身辺の都合で,メモ書きのものを書く時間さえない日々が,ずっと続いている。もう少ししないと,「普通の教授」の生活には戻れそうにない。

そんな中ででも,やはり書いておかなければならないウルトラ・スペシャルに特別な出来事といえば,56歳の誕生日の日に,第2の母校でもあるエアランゲン大学から名誉法学博士の学位を授与されたことであろう。畏友のシュトレング氏が,定年退職を前にした最年長教授としての学部内における信頼と発言力をフルに使って運動をしてくれたことには,まことに申し訳ないと思うほかない。自分がそのような顕彰に値しない学者であることは私自身がよく知っている。何をどうすれば(しかも,この自由な時間の制限された今の環境において)恩返しができるのか,心苦しくなるばかりである。

シュトレング教授は,授与式をそれだけで単独にやると人が集まらないと考えて,エアランゲン大学法学部の「卒業式」の中で行うこととしてくれた。数年前のザールラント大学の名誉学位授与式にも出席した彼が,あれではさびしいと思ったのだという。第一次国家試験(いわゆる司法試験)の合格者および博士学位取得者への証書授与式の最後に,大学長が登壇して名誉学位授与をしてくれたのである。ただ,2月9日に設定されたのはまったく偶然であり,私の誕生日にあわせてというのではない。

こうして,1980年の冬学期に(今でも心に残る)アルツト教授の素晴らしい刑法総論の名講義を聴いた,エアランゲン大学のもっとも大きな講堂(いわゆるアウディ・マックス)において,満堂の人の前で「それでは本日のクライマックスの時が来ました」という学科長の声とともに登場させられ,シュトレング教授の業績紹介,学長による学位記授与,そして30分の記念講演という順番で,これまでの人生で最も晴れがましい経験をしたというわけだ。

かつて一緒に勉強し,今は弁護士になっている友人たちや,何より,かつてその講義を聴講し,今は定年教授になっている教授たちが何人も出席してくれた。特に,ルシュカ教授は,車いすで来てくれて,本当に申し訳ない気持ちであった。記念講演の内容は,シュトレングの勧めで,刑法に関する専門的なテーマに関するものではなく,ドイツから日本への学問の移植がもった意義に関するものであった。とりわけ「大学」という制度の輸入がもった意味,フンボルト福澤諭吉の比較,現在における大学制度のあり方などを1つにまとめた話であった。年末からお正月における読書をもとにしてでっちあげたもので,これまたお恥ずかしい内容である。それでも,人をほめないルシュカが,「よく準備したな,努力賞をあげる」といっていたから,まあよかったのだ。

この記念講演の原稿については,実はちょっとしたエピソードがある。私はA4で10頁ほどの原稿をだいたい書き上げてから,いつものように家人に軽くネイティブチェックをしてもらい,その上で,それを5人ほどのドイツとオーストリアの友人と教え子に送った。もちろんドイツ語をチェックしてもらうためではなく,内容が専門外であったため,筋が通るか,内容的に理解可能か,ドイツに関わる部分に間違いはないかを確認してもらうためであった。ところが,その5人はいずれも内容より,ドイツ語をかなり徹底的に書き直してくれたのである。私は,いっぺんに5バージョンの原稿を手にして途方に暮れることになった。学んだことは1つ,私のドイツ語はやはりかなり拙劣なものでそのままでは恥ずかしい代物だということである。私は,5つのバージョンから納得できるものをつなぎ合わせて最終原稿を作った。有難かったが,さびしい思いもしたのである(なお,この原稿は,後に,ハンス・ハイナー・キューネ教授の70歳記念論文集への寄稿論文として公表した。これに対する,ゴルトダンマー刑法雑誌の書評で,ヘッティンガー氏が好意的なコメントを寄せてくれたことも忘れがたい)。 

ところで,授与式の日の夜は,町のいちばんのレストランで,法学部の教授たちが集まってくれて会食をしてくれた。ここでも,冒頭に10分間の挨拶をさせられた。これは前日にいわれて,急遽準備したもので,いつも使っている話の寄せ集めだったが,それも仕方がない。ただ,会食時の雰囲気は,彼らが集まる通常の時よりもずっとよかったのだそうだ。あとになって何人かがそう語ってくれた。

折しもドイツは日中でもマイナス10度にもなる極寒の日々であった。ウルトラマンではないが,3分も戸外にいるとガマンができなくなる気温であった。でもその寒さをそれほど感じなかったのは,心の中が温かかったからであるに違いない。