Please Mister Postman

2006年11月18日

法務総合研究所の委託で2月に1週間、ドイツへの調査旅行に行くことになった。メールを使ってハンブルクにいる知り合いの検事に協力を頼む。平日であれば、その日のうちに、返事が来て、あっという間に調査内容とスケジュールが具体化される。他方、知り合いの大学教授3人に、それぞれそのテーマで協力を求めるのに最も適任の研究者の紹介をお願いすると、早い人で数時間のうちに、のんびりした人(ないし忙しい人)でも4、5日のうちに返事が来て、適任者にはすでに電話をしておいてやったとか、その人のメールのアドレスはこれだ、基本的にOKしている、とかいうような回答が寄せられる。1週間ほどの間に調査の概要が決まってしまうのである。これはドイツの人たちの几帳面さによることも大きいのであろうけれど、メールの威力には驚くべきものがある。

こんなこともあった。あるドイツの雑誌のために論文を書いたとき、こちらからワード形式の原稿を送ると、数日後にPDFファイルであったか、確認(すなわち、校正)の依頼が来て、その後、出版されると、雑誌の現物はさすがに郵送されてきたが、抜刷りについては電子データ(PDFファイル)で代替してほしいというメールに添付されてファイルが送られてきた。抜刷りがないのはさびしいことのようでもあるが、このPDFファイルは意外に便利で、何かのついでにメールに添付することが可能であって、郵送したり、手渡ししたりする必要がないというのは(さびしい反面)とても楽である。

将来は、こういうようになっていくのであろう。電子ファイル上で校正するツールも普及するであろう。抜刷りは添付ファイルとしていっせいに送付されるのであろう。もらった人にとっては整理もうんと楽になるし、必要に応じてプリントアウトすればよい。場合によっては、論文を書くときに、そのテーマの複数の抜刷りデータを利用して、論文の草稿までいっきに作ってしまうというような(いささか危ない)使い方もできそうである。

本というのも同じ運命をたどるのであろう。たしかに、中味のよい本についてはその装丁や手触りにまで愛着がわくものである。私は、ヴェルツェルの教科書や論文集、ロクシンの『正犯と行為支配』などは、見たり触れたりしているだけでこの上ない幸福感を感じる。やがて、そういう古き良き楽しみは失われて行くであろうが、かわりにそれとは全く違った喜びを享受し得るようになるのであろう。それが何かは想像もつかないが・・・・(私がそれがわかるような発想力と想像力を持っていたら刑法学者などにはなっていなかったであろう)。