But Beautiful

2020年1月10日

お正月のメリットはただ1つ,ほとんど邪魔されずに机に向かえること。デメリットは,運動不足で便秘気味になることを別にすれば(失礼!),人と話す機会が激減するせいか,口頭で自己を表現する能力,そして,自分の置かれている状況を適切に把握して他人とスムーズに言葉を交わす能力が著しく低下することだ。若い頃のヘーゲルみたいな人間になる。さる月曜日に,とことこ,誰にも会わないだろうと,だらしない格好で研究室に出かけていったが,エレベータで派遣検察官の島田健一教授と一緒になり,島田さんは,昨日購入したかに見えるような,しわ1つない三つ揃いのスーツをばしっと着ていらっしゃるので,年始のあいさつもせずに,「せ,せ,先生,今日は,何かイベントでもあるんですか?」と素っ頓狂な声を上げたところ,静かに「授業ですよ。」と言われ,恥ずかしかった。思えば,島田さんは,いつもきちんとした格好をしておられる。さすがお上の走狗,いや検察官である。本当は大学教師もそうでなければならないのであろう。服装の乱れは心の乱れに通じる。最近は,いつも同じ(洋服の青山で買った)くたびれたスーツ,そして,授業でも会議でも,ノーネクタイで臨むことが多いが,年が改まったのを機に,身だしなみだけはきちんとすべきであろう。今日は,帰りに伊勢丹に寄って,サルヴァトーレ・フェラガモのスーツを買おう。

年を越えて新年に持ち越した仕事は,いずれもドイツからの依頼の仕事である。年末になって仕事を片付けようとあせっても,そう簡単にできない仕事は残ってしまうから,ドイツ語の仕事がたくさん越年してしまうのも「事物の本性」というべきか。そういえば,事物の本性を「じぶつのほんしょう」と読む人がいたな。カッコ悪い。牽連犯を「けんれんぱん」と読んだり,保釈保証金の没取を「ぼっとり」,井田良を「いだりょう」と読むのと同じぐらいカッコ悪い。ちなみに,司法修習生に「いだりょう」という別人の男もいるし。

重い仕事の1つは,ウルリヒ・ジーバー(正確には,ズィーバーか〔笑〕)の古稀祝賀論文集に寄稿するための論文である。昨年12月31日が締切であったが,几帳面なドイツ人たちであるとはいえ,来週中に出せば受け付けてもらえるであろう(と勝手に決めつける)。論題は,Zur Wahrheit der strafrechtlichen Problemlösung,すなわち,「刑法的問題解決の真理性について」。すでに一昨年,ドイツのあるところで話した内容を原稿化したものであり,2017年にシュトレング祝賀論文集に出した論文の続編でもある。実は,慶応での最終講義で話した内容でもあるし,『法を学び人のための文章作法』という本に書いたことを凝縮して,少し深く掘り下げ,注を付けるとこの論文になる。

ちなみに,シュトレング祝賀論文集への寄稿論文は,ドイツで引用されたり,言及されたりしているのを見たことがない。いわゆる「完無視」である。こういう書いたものを完無視されるのは,別にドイツに限らず,日本においても同じである。私が書いた論文の中で,相当の力を注いだものとして,「犯罪論と刑事法学の歩み---戦後50年の回顧と展望」(法学教室)とか「平成時代の刑法学説」(刑事法ジャーナル)とかあるが,引用されているのを見たことがない。こういう「完無視現象」は,若い頃はとても気になったものだが,年をとるとまったく気にならなくなる。人にどう見られているか,人がどう評価しているか,自分の論文が引用されているかどうか等々について関心がなくなるのである。学者はそれでよいと感じる。人にどう評価されているかなどを気にし始めたら,それは学者の堕落なのである。

そうだとすると,服装や身だしなみを気にするのは,論文の社会的評価を気にすることに通じるであろう。それは学者としての堕落であろう。やはり,くたびれたスーツ,ノーネクタイでかまわないのだ。フェラガモのスーツを買うのはやめよう。今日もいつものスーツで出かけよう。