Ich will verstehen

2010年10月9日

*以下の文章は,ある高校の依頼に応じて,高校生のための「読書のすすめ」として書いたものである。

なぜ読書をするか。私は,そう聞かれたら,ハンナ・アレントの言葉を借りて「わかるようになりたい(Ich will verstehen)から」と答えるであろう。何しろ,世の中のこと,自然のこと,そして人間のこと・・・・わからないことばかりである。何十年もかけて深く勉強してきたつもりになっている専門分野についてでさえ,わからないことの方が多い。自分の無知を思い知らねばならぬことは苦痛である。最初からギブアップして,知ろうとさえ試みないほうが精神衛生上よろしい。でも,「あ,そうか」という言葉で表現される,知る喜び,わかる喜びというのもあるのだ。これを「あ,そうか体験」と呼ぼう。

すべてのことは,思わぬ形で関連しあっている。1つのことがわかると,もう1つ別のことも知られてくる。そこで,1つの「あ,そうか体験」は,ただちにもう1つ別の「あ,そうか体験」につながる。ひとたびこの喜びを味わうと,病みつきになる。いろいろな物事について知れば知るほど,知る喜びを味わう可能性もそれだけ高まってくる。そこで,私の原則はこうである。とにかくいろいろな問題に関心を持ち続けよう。たしかに,わからないことも見えてくるから苦痛も増大する。しかし,できる範囲内でわかるようになろう。そして,そのための最も合理的な手段が読書である。とっとりばやく「あ,そうか体験」を与えてくれるのが,読書なのだ。

「知る喜び」とは,知的レベルに位置するものであろうが,「感動」とも背中合わせである。感動は,より情緒的なレベルにおける反応であろう。が,ありがたいことに,読書は,深く持続的な感動ももたらしてくれる。たしかに,感動をうるためには,書物より,映画や音楽のほうが手っ取り早い。ただ,一般論としていえば,映画や音楽は,書物に比べてやや「押しつけがましい」嫌いがある。場合によっては,それは感動の押し売りとなりかねない。その点で,書物はより謙抑的であり,それだけ読者に大きな自由が与えられる。逆にいえば,それは,読者に感動をもたらすにあたって不親切である。

映画であれば,場所や登場人物のイメージはかなり明確に決められてしまうが,本であれば,読者がかつて住んだ場所をそこに投影したり,登場する女性に読者がひそかに心を寄せる身近な人をダブらせたりすることが自由にできる。そして,受け手に大きな自由を与え,何より受け手にそれなりの問題意識と学識を要求するという点では,文学作品より,社会科学・人文科学分野の書物,たとえば,哲学や社会学の古典のほうがよりそうであろう。読者にどれだけの知識があるか,読者がどのような問題意識をもってその著作にのぞむかにより,一冊の本はまったく異なって読まれうるのである。

私の経験を話そう。法学部学生の時代(1年生か2年生かの頃)に,ある講義で,マックス・ウェーバーの『職業としての学問』(岩波文庫版)を読むように奨められた。すぐに書店で買い求めて読んだが,まったくつまらなかった。書かれていることが理解できないというのではなく,「え,それで」という感じの連続だったのである。ところが,ずっと後に,大学院生(博士課程)の頃,留学中のドイツでこの本を日本から送ってもらって読んだ。そのときは,一行一行胸に染み込むように読めて,読み終えたときには大きな感動を覚えた。このことから学び知ったことは,読書とは「著者と読者の対話」だということである。学部時代の自分では,ウェーバーと対話するのにあまりに未熟すぎたのである。

本を読むとは,著者に問いかけることである。著者に向けてボールを投げかけることである。そして,著者が投げ返すボールを受け止めることである。どのようなボールを投げかけるかにより,著者からそもそもボールが返ってくるか,どんなボールが返ってくるかが決まる。問題意識なくして書物に向かうことは,対話において,問いかけることなく「返事」を待つことに等しい。その意味において,読書は誰にでもできる営みではないし,自分を相当に鍛えなければ,できるようにはならない。何の問題意識などなくても読めて楽しい本がある,と反論する人がいるかもしれない。しかし,そのような本の前では,読者は情報の純粋の受け手に堕しており,テレビのおふざけ番組を口を半開きで見ながら時間をつぶしているのと同じなのである。それを読書と呼ぶのであれば,サルでも読書をするであろう。

読書は,本当に素晴らしい営みである。涙が出るほど深い感動をしばしば与えてくれる。これは諸君らに保証できる。ただ,書物を本当に楽しめるようになるには,その素晴らしさを実感し,深く持続的な感動を受けるためには,前提としてそれ相応の努力をしなければならない。読書は人を豊かにする。「読書力」は一生の宝になる。そのためには諸君らの時代に額に汗してたゆまず多少の努力をすることも必要だ。

それでは何を読むか。ここでは,法と法律学の世界をのぞくのに適切だと私が考える本のいくつかをご紹介したいと思う。まず,二木雄策『交通死—命はあがなえるか—』(岩波新書,1997年)があげられる。著者は,ある交通事故でわが娘を失い,その法的処理に対し,強い疑問を抱いてこの本を書いた。読者は「こんなことが許されてよいのか」という問題意識を著者と共有するに違いない。そうなれば,諸君の中に,法に対する強い関心が芽生えたことになるのである。ただ,私個人は,法による「問題解決」とはそのようなものであらざるを得ず,そのようなものであらざるを得ないところに法の宿命があると考えている。

法と法律学にとっての古典的作品であり,簡単に入手でき,また手軽に読める本としては,ベッカリーア(風早八十二=風早二葉訳)『犯罪と刑罰』(岩波文庫,1959年)がある。フランス啓蒙思想の影響を受けた26歳の若き法律家が,1764年に匿名で(実名による体制批判は危険だったのである)発表したもので,当時の不公正かつ恣意的で苛酷な刑罰のあり方を批判して,合理的な根拠のある限りで,しかも法のルールにのっとって刑罰を用いるべきことを説き,たちまちヨーロッパ各国語に翻訳され大反響を呼んだ。基調となっている人道主義,合理主義・科学主義,法治主義の思想は,現在でも基本精神として受け継がれている。

ベッカリーアは,社会契約説にもとづく死刑廃止論を主張したことでも有名であるが,団藤重光『死刑廃止論〔第6版〕』(有斐閣,2000年)を読むならば,誰でもが関心をもたざるをえない死刑の問題から入って,法の世界のかなり深いところまでのぞき込むことができる。死刑というテーマは,さまざまな問題と密接に関連している。刑罰および刑事責任(たとえば,自由意思の問題)というものについて深く考えさせられるばかりでなく,誤判という,法にとってのもう1つの永遠のテーマについて考えをめぐらす契機となるはずである。

もし刑罰に関心がもてたら,ぜひ河合幹雄終身刑の死角』(洋泉社新書,2009年)を読んでほしい。およそ罪と罰(犯罪と刑罰)について語るときには,最低限ここに書かれていることぐらいはおさえてほしい。そうすれば,テレビや新聞でしばしば語られることが,いかにでたらめで的外れかが理解してもらえるはずである。

と,ここまで書いてきて,突然に目の前に「読書の神」が立ち現れた。私は,憤っているような表情の神さまの足元にひざまずき,懸命に尋ねた。「神よ,神はなぜ読書をするのですか。」答えは,風の音にかき消されたが,たしかに,こう聞こえた。「ただ本を読みたいから。理由などない。」