Stella By Starlight

2008年12月3日

昨日は,恩師,福田平先生を国立の自宅に訪ねた。変わりのないお元気な姿にうれしく感じる。私が,ヒルシュから聞いた話などから作り上げたヴェルツェルのイメージと,彼を直接に知る福田先生のもつイメージとの比較などが話題に上る。私のイメージは学説的にも刃向かうことを許さない厳父のようなものであるが,福田先生のイメージはそのようなことに拘泥しない慈父のようなものである。彼の最高の作品が,最初期に全刑法雑誌に出た「刑法体系研究」である点では,2人の意見は完全に一致した。というより,先生の意見を何度も聞いているはずで,それをいつしか自分の見解としてしまった可能性が高い。

福田先生がお元気であることはうれしいことであるが,いま知りあいの中に病気の人が多い。その他にいろいろな楽しくないニュースも耳に入ってきて,どうも11月はじめにソウルに行った頃から,気分がひどく落ち込んでいる。それにもかかわらず,やたらいろいろと書かされている。11月中に書いて出したものだけでも,旬刊経理情報という雑誌のための裁判員制度に関するエッセイ,有斐閣のPR誌「書斎の窓」のためのエッセイ,基礎から学ぶ刑事法のための補遺(2009年1月版),法教連載原稿(「刑法超入門」),立法学に関するジュリスト(12月15日号)の特集論文(これは少し前から準備していた)がある。最後のジュリスト論文は,10月の同志社での講演の原稿,11月のソウルでの講演の原稿,そして韓国の刑法学会の30周年記念論文集への寄稿論文としても「流用」した。われながら,あこぎな商売をしている。日本と韓国の関係者の皆さんごめんなさい。この場を借りてお詫び申し上げます。

別に,これだけ仕事をしているんですよ,という自慢のために書いているのではない。驚くべき事実をこれから指摘したいのである。これらは,他人の本や論文を読んだりして情報をインプットすることがほとんどない形で,パソコンに向かって(まるで小説家のように)ひねり出したものだということである。これらは基本的に言葉による構築物(要するに,でっち上げ)にすぎず,内容のある学術的な著作であるはずはないのである。そう考えるとますます落ち込むのである。

先週末には,九州大学であった日本生命倫理学会に行った。ホテルが取れず,かなり離れた筑前前原という場所のビジネスホテルに泊まったということもあったが,学会の役員会議に顔を出したぐらいで,学会報告などは非常にわずかにしか聴かなかった。それは,法教原稿を抱えていたからである。片付けてからいけばよかったが,ぐずぐずしていて,結局もっていかざるをえなかった。何のために学会に行ったのか,かなり疑問。

筑前前原は,土曜の夕方なのに妙に人が少なかった。寒かったので,「サンリブ」という百貨店で2100円の手袋と,文庫本一冊を買った。24時間営業のうどん屋(チェーン店?)に入り「天丼セット」を食べたが,メニューの写真と現物との落差が大きかった。今から思えば,福田先生のヴェルツェルと,私のヴェルツェルぐらいの開きがあった。590円だから仕方ないなあと思った。

会計のとき,600円を出すと,10円のお釣りをくれた。だが,その10円玉が「子ども銀行」のプラスティックの10円なのである。そこで,「すみません,これおもちゃのお金ですが・・・・」というと,「え,いまお客さんが取り換えたんでしょう。そうでないことを証明できますか」なんて言われたら困るだろうなあ,と想像をめぐらせていたら,おかしくなって,レジで「ぶーつ」と吹き出してしまった。店員さんにけげんな顔をされてしまったのはいうまでもない。

恥ずかしくなってあわてて店を出ると,そこに立っていたのは,ステラ。星影のステラ。