Smoke Gets In Your Eyes

2008年2月20日

今は,スイスのバーゼルにいる。昨日,この大学のスタッフセミナーで「法発見の方法---刑法の場合」というテーマで講演させていただき,夜には,講演にも来てくれた,定年教授・シュトラーテンヴェルト氏らと一緒に食事をした。シュトラーテンヴェルト氏の真向かいに座った私は,ヒルシュ教授のところでドクター論文を書いたと話したら,「彼は最も正統派の目的的行為論者なんだから,彼がヴェルツェルの体系書を改訂すればよかったんだ」と言った。(なお,後に,そのことをヒルシュ氏に伝えたら,それは彼の皮肉であろう,とちょっとイヤな顔をしていた。)

ヴェルツェルの体系書は,『ドイツ刑法』という書名で,総論と各論を含み,1969年に11版が最後となったが,それまで2年に一度は改訂版が出て,一時はドイツで最も広く読まれた教科書であった。20世紀のドイツ刑法学が生んだ最高の体系書の1つである。目的的行為論が学界の少数説であり続けたことを考えると,そのことは驚くべきことであろう(もっとも,有名な定義のように,「目的的行為論とは故意を構成要件要素とする見解である」とすれば,それは通説となったといえる)。総論はもちろんであるが,各論部分がコンパクトであるのにその内容がきわめて充実していることには感嘆に値するものがある。

ヴェルツェルの体系書の運命については,かなり正確なことが分かっている。晩年になり急速に知的に衰えた彼は,当初はもちろん一番弟子と目されたアルミン・カウフマン(ボン大学における講座承継者)という飛び抜けた理論家に期待した。しかし,寡作の彼が仕事をしないことに業を煮やしたヴェルツェルは,70年代初めに,教授になりたてのヒルシュ(ただ,11版のかなりの部分を手伝っていた)をわざわざ自分のところに呼んで,改訂を頼み込んだのである。ヒルシュはきわめて名誉なことと感じ,即座に喜んでお引き受けすると答えたのであった。

ヒルシュはその後,ヴェルツェルと出版社からの正式の依頼と段取りの相談があることを待っていたが,まったく音沙汰がない。聞くと,ヴェルツェル夫人がヒルシュに依頼することに反対し,カウフマンにやらせるべきだと強硬に主張したというのである。ヴェルツェル=カウフマンの第12版の広告も見たという。ヒルシュは,プライドを傷つけられた気持ちとなり,ライプツィガー・コンメンタールの違法性論の部分の仕事(これもまた名誉な仕事である)に没頭したということである。

しかし,カウフマンは改訂作業を進めない。そこで,改訂版の出版が遅れることを心配した出版社とヴェルツェルは,勤勉型のヒルシュに対し,正式に改訂を依頼したのであった。電話でのやりとりは,「ヒルシュ君,やはり君に頼めないかな。」「いや,いくら先生でも,今となってはこの依頼は受けられません。」・・・というものであったらしい。

そこで,困ったヴェルツェルと出版社は,時間が経ち,改訂作業が難しくなっていることにかんがみて,総論部分をヤコブスに,各論部分をガイレンにまかせるという窮余の一策に出たのである。結局,そのまま改訂作業は進まず,ヴェルツェルの教科書は終焉を迎えたということになる。

後に私は,ヒルシュ教授に,経緯はあったにせよ,たいへんお世話になった,尊敬する恩師が頭を下げてお願いしてきたのだから,やはり引き受けるべきだったのではないですか,と聞いたことがあるが,ヒルシュ氏の返事は,学者ないし人間としての誇り(プライド)の問題だという趣旨のものであったと記憶している。

ところで,シュトラーテンヴェルト氏は,アルミン・カウフマンと並ぶ,ヴェルツェル門下の最高の頭脳の一人であり,スイスでは,スイスの刑法を根本的に変革した大刑法学者として伝説的な存在である。私は,バーゼル大学での講演のあと,ただちに彼のところに駆け寄って,わざわざ出席してくれたことのお礼を述べ,さらに,講演の中での私の主張についてどう思うかを尋ねたのであった。彼の答えは,内容にまったく触れず,「あなたはドイツ語がうまいね。」というものであった。私はとても悲しかった。