Matthäus-Passion

2006年10月31日

今日と明日は二晩続きでドイツ関係の会合である。日独交流のため、自分にできる範囲内でできることはする、というのが人生の課題でもあるから、本当は嫌いな社交の場にも出て行く。靖国問題とか問われてうまく表現できず、本当にドイツ語は難しいと思うが、でもドイツ語があちこちで話されるところに行くと、何か故郷にもどった感じがする。若いときにドイツ語を勉強してよかったと思う。

ドイツ語を勉強してよかったなと思うことは無数にあるが、その1つはマタイ受難曲である。ドイツに留学して、当時エアランゲン大学にいたゲッセルという教授のところで指導を受けた。いろいろと教わったが、バッハの音楽を聴くように言われたことがその1つである。音楽ないし美を、上から支配する態度ではなく、それらに下から仕える態度がそこにあるというのである。そのように、学者も真理に仕えなければならない。ドイツでの修行時代、ブランデンブルク協奏曲から入ってマタイ受難曲まで聞き込んだ。

そういえば、今年3月に、マタイを東京オペラシティコンサートホールで聴いて大変感動した。ペテロが鶏が鳴く前に3度イエスを知らないというくだりなどはいつ聴いても泣いてしまう。宇多田ヒカルじゃないが、イッツ・オートマティックに泣いてしまう。帰り際には涙で顔がぐしゃぐしゃになってしまうといった状態であった。ちょうどそのとき偶然に、城下裕二さん(現在、北海道大学)に会い、「よかったですね」とか話しかけられ、エラク当惑した。それはとにかく、私なんかがいまマタイに深く感動できることにはそれなりの前提があると思う。新約聖書を読んで多少ストーリーを知っていること、刑法という学問をやっているので、人間の弱さと挫折、責任と刑罰、罪と贖い・・・こういったことを普段から考えていること、そして何より、ドイツ語の歌詞を聞いてある程度分かるということである。ドイツ語を知らない人にマタイを聴けというのは無謀であろう。

ドイツ語については、学部2年の終わりぐらいから(大学の授業ではなくて、慶應外語の集中コースに入って学んだ。素晴らしい授業であった)かなり時間をかけて何度も挫折しかけながら苦労してずっと勉強してきた訳だが、それがエアランゲンでの修行時代を経て、こうしてマタイを聴いての感動につながるということである。こういう感動が味わえるようになっただけでも、ドイツ語を勉強してきてよかったと思うことがある。