I Thought About You

「欅」第13号の刊行に寄せて(2004年12月17日)

いま「欅」のバックナンバーに目を通しています。ふと私が高校生のときに書いた一つの作文のことを思い出しました。髪を肩までのばし、ベルボトムジーンズ姿で歩き回っていた頃のことです。その作文のタイトルは、たしか、「はねばしの詩」でした。当時の私に、美術や音楽やスポーツの才能がこれっぽっちもないないことは疑うべくもありませんでした。他方、読書が好きで、ひたすら「哲学青年」ぶっていたとはいえ、文章を書く力が少しでもあるとも到底思えませんでした。ところが、現代国語の時間に書いたその作文は、担当の先生から最高の評価を頂戴し、そればかりか先生は、教室で私の文章に特に言及されて、口を極めて褒めて下さったのです。それは、高校時代という「自分探し」の道程における重要な出来事でした。私は、ますます読書が好きになりましたし、また、文章を書くことに少しばかりの自信を持つようになりました。今の私が物を書くことを仕事の中心の一つにしているということができるとすれば、職業選択の最初のきっかけを与えてくれたのはその作文であり、現国担当の先生であったといって間違いありません。

 

また、「欅」に掲載された文章には、しばしば本や映画などの芸術作品と出会った生徒諸君の驚きや感動が表現されていますが、私にとっても、そういう出会いがあり、それは決定的ともいえるものでありました。私が出会った本は、ノーマン・マルコムという人が書き、板坂元氏が訳した『ウィトゲンシュタイン---天才哲学者の思い出』という本です。その本は、副題に魅かれて(天才ってどんな人なんだろう)購入したのですが、20世紀を代表する哲学者として有名なウィトゲンシュタインの素顔を、弟子のマルコムが敬慕の念とともにいきいきと描いたものです。私は、一読してこの「真理の狩人」の姿に魅了されました。戯れに学問をしてはならない、それは命をかけるに値する人の営みであるということを私に教えてくれたのは、この本に描かれたウィトゲンシュタインです。その頃の私は、実にくよくよと悩み、しばしば「実存の危機」にも陥りました。そんなとき、私を救ってくれたのは、本書に出てくる次の言葉でした。「哲学を勉強することは何の役に立つのか。もし論理学の深遠な問題などについてもっともらしい理屈がこねられるようになるだけしか哲学が君の役に立たないなら、また、もし哲学が日常生活の重要問題について君の考える力を進歩させないのなら哲学なんて無意味じゃないか。」何度この文章を読み返したことでしょう。私は、この言葉を少し読み替えてモットーとしたのです。『学校で学ぶことが、人が日常を強く生き抜くための力にならないとしたら、そんな勉強は無意味だ』というように。ウィトゲンシュタインのおかげで、私は、「自分探し」の過程で陥った無数の「危機」を克服することもできました。学問は人を救い得るということを私は確信できたのです。もちろん、それは大学に入ってからのことでしたが、私は学問を一生の仕事にしたいと強く思うようになりました。

 

高校時代は「漂流」のイメージで捉えられるように、ひとつ間違えれば危険な方向に行きかねない時代です。自分がちっぽけで無力に思えてきて不安になるのですが、それでいて、外から来るものに頼りたくない、むしろそれがすべて押しつけがましい制約と感じられるのです。誰しもが傷つきながら乗り越えなければならない苦しい暗夜の行路です。でも、それは、自分がこの社会で何をなし得る人間なのか深く考え模索するなかで、人や芸術作品と出会い、自分を(再)発見する旅路であり、チャンスのときでもあります。今年もこうして完成を見た「欅」ですが、私は、心の中で生徒諸君にエールを送りながら、「自分探し」の格闘と模索の記録としてこれを読みたいと思います。

*「欅」とは、慶應義塾志木高等学校の生徒諸君の作品を載せる定期刊行物です。