Presence Of The Lord

2006年11月11日

最高裁刑事局の裁判官たちとの研究会(今日のテーマは量刑)を終えたその足で、東京駅から新幹線で岡山までやってきた。今は岡山のビジネスホテルにいる。裁判所から地下鉄の駅までは若手ぴか一の俊秀J大学のS君と一緒に帰った。よもやま話をしようとするが、相手は頭の良い人であるという妙な意識が邪魔するのか、話が弾まない。その後、地下鉄の駅で、わがゼミ出身の女性弁護士とばったり会い、今度は彼女と有楽町までご一緒する。これまた時間のブランクがあって共通の話題をお互いに探しているような次第で話が弾まない。

授業をやっていて思うことなのだが、うまく話ができるとき(話が弾むとき)と、もう口を出る言葉がまともな文章にさえならず、苦痛でしかないときとがある。それは準備をきちんとしたかどうかとはまったく関係がない。きちんと準備をしてもダメなときはダメ。十分に準備ができなくても授業では絶好調ということもよくある。

もちろん以前から原因が何かを考え、いつどういうときに授業がうまくいかないのかの法則性を究明しようとはしてきた。何かしら良いことがあって気分が高揚しているときにはうまくいくことが多いが、それも絶対ではない。せっかく良い日だったのに、授業が不出来であったことがきっかけとなってひどく落ち込むこともある。どういうわけか、まったくやる気が出ないこともあり、そのときにはまず授業はダメだ。悪いことが続いていても、授業では「波乗りジョニー」ということもよくある。お昼に気の合う人と一緒に食事をして、そのあと授業だと、うまく行くことが多いが、例外も少なくない。

今では問題は宗教の次元にあり、神に祈るしかない問題であると思うに至っている。ある外科医の先生は、手術の日の朝には時間をかけて神に祈りを捧げるという。私も、教室に向かうときには、心の中で「神さま、今日は授業がうまく行きますように」と祈るのである。もしプロとアマチュアの違いが、体調がどうあれ、私生活がどうあれ、気分が乗っていようといまいと、きちんとしたパフォーマンスができるかどうかの点にあるとすると、自分は教育に関する限りプロではないと感じる。授業評価が悪くて当然だ。

それでは研究についてはどうか。気分が乗ってどんどんと文献を読み進めることができるか、従来はなかったようなよいアイデアにめぐりあえるか、個々のアイデアをうまく全体の中に(ジグソーパズルのような形で)はめこむことができるか、すべては自分のコントロールの可能な範囲外にあると感じる。ここでも、すべては神の采配にかかっている。

研究についても教育についても自分は徹頭徹尾アマチュアで、プロにはなれないと思う。そんなことを考えていたら岡山に着いていた。