Beyond an Unreasonable Hope

2006年11月3日

ある雑誌から依頼された原稿の締切りが近づいているが、何ら準備もしていない。論題は、「刑法における学説と実務」。

そういえば、最近、上田閑照西田幾多郎とは誰か』(岩波現代文庫)を読んだ。この本は、西田哲学にとっての基本的問いかけを二つに要約している。すなわち、「我々がそこから生れ、そこに於て働き、そこへ死んで行く現実の世界というものは、どういう構造をもったものか」、そして、「我々の自己の存在とは如何なるものであるか」である。

この二つは、刑法学にとってもまさに中心的な問いかけである。何のために刑法を学び、刑法を研究するのか。それは刑法が分かるようになるためであろう。刑法を理解するためであろう。そうして、刑法を理解するとは、人を理解することであり、文化を理解することであり、法の本質を理解することであり、社会を理解することであろう。

実務に役立つ法解釈の在り方を探究するために刑法学を研究しています、なんてことをいうとすれば、それは刑法学に対して失礼な話である。侮辱である。刑法学を試験勉強との関係でのみながめることが刑法学の救い難い矮小化であるように、刑法学を実務との関係でのみながめるのも救い難い矮小化である。

論文にはこんなことを書いてやろう。

 

* この論文は,後に,「刑事実体法分野における実務と学説(特集 実定法諸分野における実務と学説)」法律時報79巻1号(2007年1月)43〜49頁として公表された。