Here I Go Again

2006年11月22日

締切りを過ぎた原稿が3つある状況で、1つについては催促を受けて、一週間の猶予をもらう。そこで、まず仕上げなければならない論文を何とか書き上げて送信をすませた。おかげで生活破綻である。出来た原稿は、12月14日・15日にソウル大学で予定されている、「21世紀の刑罰制度」というテーマの国際セミナー(韓国刑事政策院主催)での報告のためのものである。論題は主催者に指定されたもので、「日本における量刑法改革の動向」である。「量刑法」というのは日本ではなじみのない概念なので、変更したかったが、先方からの指定なので、異を唱えないこととした。法定刑の引上げの問題と、裁判員制度の下での量刑の在り方について論じてほしいというのが依頼の内容で、自信のないまま、韓国語に訳されることを考えて、文章を短くし、行間が飛ばないように配慮しつつ、何とかまとめた。

量刑については、今やせっかくこれだけ議論が盛り上がっているのだから、議論に付いていって、何か問題解決に寄与したいと思いつつも、まとまった勉強ができない有り様である。大阪刑事実務研究会の長大な研究も、ずっと気になりながら、読もうと思っても、何しろコピーする時間もない。この間、時間を空いたので、早速図書館でコピーをはじめたが、半分もコピー出来ないうちに時間切れとなった。情け無いことである。

今回の論文も状況をまとめただけの代物で、その状況把握も批判に耐え得るものであるかどうかわからない。本当は専門家の小池信太郎君あたりに読んでもらってチェックしてもらえばいいのだが、その時間もなかった。

量刑は、大学院のときのドイツ留学中にドイツの文献を中心にまとめて勉強し、助手のときに、幻の「現代刑事政策講座」(企画そのものが潰えてしまった)に出す予定であった幻の「刑の量定」の原稿を書きながら(思えば、それが出版社から依頼されたはじめての仕事であった)、日本の文献を中心に勉強しただけである。その後、恩師中谷瑾子先生に「解釈論の中心領域から逃げるな」と言われて、研究テーマを錯誤論に変えてしまった。

ところが、思いがけないことに、それからずっとしてから,量刑についてかなり議論が出てきて、実務家も理論研究に関心を持つようになった。現在では、最も盛んに議論されているテーマの1つになったといえよう。マラソンで、先頭グループが飛び出したときに、頑張ってその後ろにでも付いていく。今から振り返れば、そういう気概と心構えが必要であった。それなのに、先日の高橋尚子のような走り方をしてしまった。頑張っていれば、研究に多少の寄与が出来たかも知れないと思うと残念である。

まあいいさ、私には目的的行為論の研究が残っている。このテーマについては先頭を独走しよう。おっと、コースから外れているって。そればかりか、お前はコースを走っていると思っているかも知れないが、そこには道も何もない、だって?

Please Mister Postman

2006年11月18日

法務総合研究所の委託で2月に1週間、ドイツへの調査旅行に行くことになった。メールを使ってハンブルクにいる知り合いの検事に協力を頼む。平日であれば、その日のうちに、返事が来て、あっという間に調査内容とスケジュールが具体化される。他方、知り合いの大学教授3人に、それぞれそのテーマで協力を求めるのに最も適任の研究者の紹介をお願いすると、早い人で数時間のうちに、のんびりした人(ないし忙しい人)でも4、5日のうちに返事が来て、適任者にはすでに電話をしておいてやったとか、その人のメールのアドレスはこれだ、基本的にOKしている、とかいうような回答が寄せられる。1週間ほどの間に調査の概要が決まってしまうのである。これはドイツの人たちの几帳面さによることも大きいのであろうけれど、メールの威力には驚くべきものがある。

こんなこともあった。あるドイツの雑誌のために論文を書いたとき、こちらからワード形式の原稿を送ると、数日後にPDFファイルであったか、確認(すなわち、校正)の依頼が来て、その後、出版されると、雑誌の現物はさすがに郵送されてきたが、抜刷りについては電子データ(PDFファイル)で代替してほしいというメールに添付されてファイルが送られてきた。抜刷りがないのはさびしいことのようでもあるが、このPDFファイルは意外に便利で、何かのついでにメールに添付することが可能であって、郵送したり、手渡ししたりする必要がないというのは(さびしい反面)とても楽である。

将来は、こういうようになっていくのであろう。電子ファイル上で校正するツールも普及するであろう。抜刷りは添付ファイルとしていっせいに送付されるのであろう。もらった人にとっては整理もうんと楽になるし、必要に応じてプリントアウトすればよい。場合によっては、論文を書くときに、そのテーマの複数の抜刷りデータを利用して、論文の草稿までいっきに作ってしまうというような(いささか危ない)使い方もできそうである。

本というのも同じ運命をたどるのであろう。たしかに、中味のよい本についてはその装丁や手触りにまで愛着がわくものである。私は、ヴェルツェルの教科書や論文集、ロクシンの『正犯と行為支配』などは、見たり触れたりしているだけでこの上ない幸福感を感じる。やがて、そういう古き良き楽しみは失われて行くであろうが、かわりにそれとは全く違った喜びを享受し得るようになるのであろう。それが何かは想像もつかないが・・・・(私がそれがわかるような発想力と想像力を持っていたら刑法学者などにはなっていなかったであろう)。

遺棄罪の本質をめぐって

2006年11月15日/2007年1月5日

久しぶりの12時間睡眠により脳のハードディスクを初期化した。初期化に伴い、とんでもない夢を見た。その内容を書くと、正夢になりそうなので書かない。いつものように朝風呂に入りながら、初期化といっても完全新品のHDになったら大変だよね、日本語も出てこない、などと独り言をいってけらけら笑っていた。風呂を出てから、うさぎにエンムギをやりながら、こっちも朝食をとった。それにしても、うさぎは、なぜこんなにエンムギが好きなのだろう。まるで狂ったように食べている。こっちも真似して狂ったようにトーストを2枚食べて、味がおかしいと思って賞味期限を確認したら1週間前に切れていた。もう胃に入ったものはもどってこない。まあそのうち腸を通って出て行くであろう。

わが家には居間兼食堂に8匹(8羽?)のうさぎが、庭に20匹以上のうさぎがいる。昔はモルモットを飼っていたが、すぐ死ぬので(夜中に急に電気をつけてもショック死したりする)、そして死ぬときに苦しむので(モルモットでもこうだから人間は大変だということで終末期医療の問題を考えるにはいいが)、ペットショップで「もっと生命力のあるやつをくれ」といったら、うさぎがいいということになり、最初はオス一匹だけを飼っていたが、一匹ではさびしそうだという仏心を出したのが地獄のはじまり。そのペットショップで「オスをくれ」と念を押したのに(ちなみに、判別はなかなか困難)、数週間後には5つ子が誕生した。もちろん、その時点でケージを7つ購入していれば、このようなことにならなかったが、2つにケチったのが失敗で、すぐに30を超えるようになった。

生まれたばかりは可愛いし、そのペットショップにも責任の一班はあるので、出産規制に失敗して生まれるたび、その店に引き取らせる。また、何を考えるのか家を出ていなくなってしまううさぎもおり、また、このかん、家人がオスメスの判別のプロに育ったこともあって今のところ約30匹でおさえられている。

猫が危険である。庭にいるうさぎについては、狙われないようにうさぎ小屋にかなり厳重な装備を設け、また父が生まれながらの猫嫌いなので、長年の工夫で、庭に入りにくいようにしてあるが(家にいると、父が箒を持って猫を追いかけている光景がたまに見られる)、一度だけ生まれたばかりのうさぎが猫にくわえられて拐取されそうになったことがある。これは家人がバットを持ってゲルマン魂で追いかけ、さすがの猫も途中でうさぎを離したのであるが、可愛そうにそのうさぎは脊髄をやられたのか、半身不随となってしまった。そこで居間兼食堂には寝たきりでベッドに寝ているうさぎがいるのである。うさぎを飼っている人は多いであろうが、30匹も飼って、中に寝たきりうさぎもいるという人はほかに少ないであろう。

うさぎはプレイボーイのシンボルマークになっているように、生命力が強いというばかりでなく、繁殖力が強い。オス同士、メス同士も交尾(の真似事)をする。ドイツの恩師、ヒルシュ教授にこの件について相談したことがあるが、額に皺を30は寄せて「Aussetzen!」と言った。日本語にあえて訳せば、「棄てることだ!」ということになろう。その言葉は、刑法の遺棄罪の「遺棄」と同じ言葉であり、さすがドイツの刑法学者であると思った。

 

その後,うさぎの数が29匹になったところで,志木高の先生にお願いして校内にうさぎ小屋を建ててもらった。1月2日に愛車メルセデスの後部座席に5匹のうさぎを乗せて出発。はじめて志木高に車で行ったので片道2時間近くかかったが、無事に到着して、5匹を立派な小屋に収容していただいた。ひと安心ということで、29匹いたうさぎが24匹になったはずのところが、再び出産制限に失敗して、大晦日から正月にかけて5匹が出生した。これがめちゃくちゃ可愛いので、これをすべてペットショップに引き取らせようとは思うが、いずれにしてもやはり29匹の現状のままである。


ちなみに、刑法学界には「うさぎ30」ならぬ「中谷30」という笑い話が伝承されている。かつて恩師の中谷瑾子先生の傘寿祝賀論文集を作ったことがある。なかなか売れにくい本なので、いろいろな機会にいろいろな人に「中谷傘寿」を買ってもらうように持ちかけた。あるとき、東京大学山口厚教授(当時)にこの話をしたところ、わかったということで、山口氏が出版社に電話し、一冊送れと依頼したのであった。そして、電話に出た編集部の人が電話を切ったあと、営業の人に「中谷傘寿を山口先生宅へ」と指示した。数日後、山口氏宅に何と大きな段ボール箱が到着し、中には30冊の論文集が入っていたのである。「中谷傘寿」が「中谷30」と理解されて30冊を送る手配がとられたのであった(笑)。

ああ、お正月なので楽しい話をしようと思ったが、まったく乗らないね。それもそのはず、ドイツ語バージョンの「社会の変化と刑法」がまだ完成していない(締切りは12月31日)。井田良はまだ年を越せていないのだ。こんにゃく屋(=飜訳屋)に徹しているのだが、正月三が日での完成はやはり無理だったのである。日本語原稿あと4頁をドイツ語に訳し、全体を推敲しなければならない。韓国に送ることができるのは日曜日あたりになるかもしれない。

まあ焦っても仕方がないだろう。明日は、4強目ざしてバスケットボール部の諸君が頑張るので、大声で応援をすることでたまったストレスを発散することとしよう。それにしても、朝日新聞で、闘将、酒井君が取り上げられていてうれしかった。インカレで優勝したら彼のシューズをもらう約束だったのだ。それが二位に終わったので残念であった。オールジャパンで、天才・志村君のいる東芝と決勝、何てことになったら本当に素晴らしいことだ。そのときには2人から2足ずつシューズをもらうこととしよう。

Vorleser

2009年9月27日

 

前回の日記を書いてから,この半年の間に,わが身に降りかかった過酷な運命についてはいつか総括する必要があろうが,今は書かない。いずれにしても,この私はもはや学者ではない(2020年1月5日補遺---この年の5月から学校法人慶應義塾の常任理事になった)。

そして今はドイツにいる。ドイツの連邦議会選挙の視察のため。ドイツ学術交流会(DAAD)から招待され,18人の視察者(ドイツ,ポーランド,ロシア,英国,米国,インド,ブラジル,ナイジェリア,オランダ,フランス,タイ,中国,リバノン,トルコ,アルゼンチン等。主としてドイツ政治を専攻する大学教授たち)と一緒にドイツ国中を回る旅に参加している。フランクフルト,マンハイムハイデルベルクシュトゥットガルトハンブルクミュンヘンドレスデン,ハレと回ってきて,今はベルリンにいる。

これまで主として刑法の抽象的な理屈のみを考えてきた人間にとり,ドイツの政治・経済や外交問題,教育制度,ヨーロッパとの関係などは,ほとんど素人以上の知識はない。あちこちを回って,一流の専門家であるゲストの話を聞かせてもらい,議論をするというのだから,もっぱら聞き手にまわり,学生のようにノートをとり,せいぜい時たま確認の質問をすることしかできない。

最初は苦痛であったが,どうひっくり返っても素人なんだから教えてもらうしかないと割り切ってから気持ちも楽になった。

ついに明日が投票日。格差社会化を批判する社民党と左派党が一方にあり,それと一線を画す形で緑の党があり,他方に,経済発展と企業の国際競争力を重視するキリスト教民主同盟・社会同盟がある。今回の選挙では,同盟と社民党の大連立が継続するであろうと予測されているが,数年後には,社民党左派が,左派党および緑の党と組んで,左派内閣を作る可能性も大きいといわれている。格差社会は嫌だが,企業が弱くなると結局暮らしはよくならない,というジレンマは,日本と共通であるが,政治の中心に政党があるドイツでは,日本よりも問題状況がより明確なものとなっている。

ところで,一昨日は,雄弁家としてならす左派党のグレゴール・ギズィーの大演説をハレで聞いてぶっ飛んだ。弁護士出身であることもあり,その名は以前から聞いていたが,これだけの弁舌はかつて聴いたことがない。ロクシンをはるかに超えるであろう。昨日は,社民党のシュタインマイヤーの演説を聴いたが,ギズィーの後では影が薄い。今日は,皆はメルケルの演説を聴きに行ったが,私は,一人別行動をとった。フランクフルト(アン・デア・オーダー)大学教授のヨェルデン氏と待ち合わせして昼食を一緒に食べたのである。彼が共同に組織する,生命倫理関係の研究グループに加わることになったので,その打ち合わせを兼ねてのことであった。これまた面倒なことであるが,こういう形で自分を強制しないと,今後そもそも研究につながっていることができないであろう(2020年1月5日補遺---その後,この研究グループに加えていただきながら,まったく何もせず,ヨェルデン氏には完全に愛想を尽かされ,嫌われた〔涙〕)。

今は,アレクサンダー広場にある,当時は東の代表的なホテルであったパークインに泊まっている。広場付近を散歩しても,東の雰囲気が濃厚にあってちょっと息がつまりそうな感じさえする。今回の旅では,宿泊も移動先も主として(旧)東ドイツである。相対的に貧しい東側への配慮とも理解できる。

時間を盗むようにして本屋をのぞくと,カール・シュミットの分厚い伝記が出ている。買いたいとも思うが,どうせ読む時間がないであろうと思って,結局手を出さない。DVDの売り場を見ると,映画化された「朗読者」が出ている。これも観たいと思うが,どうせ時間がないと思い,諦める。それにしても,「朗読者」は素晴らしい小説である。口には出さないが,ひたすらに男の側からの救いを待っているかに見える女性と,かつて愛した女性に救いの手をさしのべようとしない男。むごいが,男の冷たさがよく描かれている。「朗読者」というタイトルですべてのことが言い表されているという点でも見事。

This Traveling Boy Was Only Passing Through

2010年5月12日

懇意にしている方の厚意で,ニューヨークのアップルストアで購入されたiPadを入手した。

これは,要するにiPhoneの大型版であるが,無線LANにつながっている限り,すこぶる調子がいい。しかし,とりわけ具合がいいのは,次のような使い方であろう。授業のときに,講義ノートをA4の紙に打ち出し,クリアファイルなどに入れて教室に持っていくが,その代わりにすることができる。また,会議のときなど,ノートパッドを持っていってこれにメモしたりするが,そのようなときにも利用できよう。さらに,ちょっとした講演のときに,カッコつけて原稿をA4サイズの革製の紙挟みに入れて持っていったりするが,これをiPadで代用できる。もちろん,現在ではまだまだかったるいところがあり,使い勝手が悪いが,おそらくかなり近い未来に,そのような形で紙の代用品としてこの種のものが普通に使われるのは確実であろうと思われる。iPadは1つの未来のイメージを示して見せたのである。

そんなことで,仕事に追われ,特に渡欧を木曜に控えていながら,職場でこれを人に見せびらかしつつ,iPadで遊んでいたりするのである。ただ,昨日,SさんとMさんに見せびらかしていたところ(よく考えると,2人そろってヤンマーならぬ,2人そろってSMだ),地面に落としたのはバチが当たったのかもしれない。だいだいそもそも,書きたいことがないのに日記を書きはじめたのも,すでにiPadをもっていることを自慢したいがためだけのことであるのかもしれない。

もう1つどうでもよいことに気づいたのは,iPadをいじっていて,そしてiPhoneをいじると,ものすごく小さくて可愛く感じることである。きゅっとコンパクトになった精密機械という感覚をもつのである。またiPhoneに惚れなおすということになる。

ということで何年か前は肩身が狭く,ついにウィンドウに乗り換えざるをえないかと何度も思った長年のマックユーザーとしては,こうしてMac製品をいじりながら,Mac一途でよかったと思う。今から20年前のことだったが,偶然,田町駅前の本屋で見たMACLIFEという雑誌に載っていたSE30に魅せられて,プリンターと一緒で60万円以上したのを買い込んだことからはじまったMacとの付き合いは,裏切られることなく,今日まで続いている。

1つ大きな進歩だと思うのは,次のことである。私どものように基本的に文章を書くことにしかパソコンを使わない人間にとっては,ノートパソコンで十分であり,いつしかデスクトップ型のパソコンは使わなくなった。そのことがもたらしたのは,急にブレーカーが落ちたりしても,作業に影響がないということである。かつては,そのたびに文章やその一部を失ったりしたものだ。今の若い方には想像できないかもしれないが,フリーズとブレーカーの両方のリスクを抱えながら仕事をしていたのが,フリーズもめったに起こらなくなったし,ブレーカーが落ちても大丈夫になった。一行書いては保存,しばらく忘れていてフリーズ,あちゃーというような時代は,松田聖子とともに去っていったのだ。

ということでつまらない日記になったが,ごめんなさい。タイトルはポール・ウィリアムスの作った曲で,アート・ガーファンクルがカバーしたTraveling Boyの一節。文字通り旅愁漂う名曲です。なお,明日は旅行の準備で忙しく,残念ながらコメントに反応はできないと思います。お許し下さい。

Nothing's Gonna Stop Us Now

2011年10月1日

マンダムのテレビコマーシャルの話をしても,わかる人が少なくなってきた。これはショックである。いま使っているヘヤートニックは,柳屋か,またはマンダムかであるが,基本は柳屋。これは父がずっと柳屋を使っていて,89歳でも髪がふさふさであるのは柳屋のヘアートニックのおかげに違いないと思うからだ。しかも,あまりに安くて,柳屋に申し訳なくなるぐらいだ。柳屋,本当に有難う。ただ,たまにマンダムに浮気する。これは,かつてのテレビコマーシャルのせいである。もし私の髪がだんだん減っているとすれば,特に生え際が大きく後退し始めているとすれば,柳屋だけに徹底していないせいかもしれない。そういえば,昨日,フランクフルト・ソーセージ大学で,ドーピングに関する講演を聴き,そこで示されたウリーンプローベ(小便試料というのか)の中に緑色のがあり,あれを見たとき,あ,柳屋のヘアートニックだ,と思ったのは,あの部屋の中にいたうちで,私だけだったに違いない。

そんなことはともかく,最近,アルバートハモンドのLegendというCD(しかも2枚組のやつ)を購入した。日本では「落葉のコンチェルト」というのが特に有名であるが,この曲は外国ではそれほど人気がない(歌詞のせいであろうか?)。何といっても,「カリフォルニアの青い空」である。日本語タイトルから受ける印象とは正反対の歌詞の内容である。タイトルに誤導される典型例であろう。その意味では犯罪的に不適切な訳である。「南カリフォルニアの土砂降りの雨」というタイトルであったとすれば,ミスリードされる心配はない(笑)。

このCDを聴いていちばんびっくりしたのが,あのNothing's Gonna Stop Us Nowがアルバートハモンド作だったということである。しかも,彼のウェブサイトで歌詞を見ると,驚くほど脳天気な,一点の曇りもないラブソングであることもあらためて認識した。あまりに明快で,ロクシンのいうことと同じぐらい,恥ずかしくなるような明快さだ。そして,ボニータイラーが見事にはまっている。ふだん絶対に聞かない歌手だが,ここではかっこよすぎる。最近はウォークマンに入れて,無限リピートにして聞いている。冒頭の「うーん,イエイ」という声にはまると,その部分だけ無限リピートにしたい気がする。

このボニータイラーが目の前に現れて,彼女からこの歌詞のようなことを申し向けられ,でも,ヘアートニックは,ブリジストンのエンジンオイルにしてね,と言われたら,柳屋もマンダムもすぐ捨てることであろう。翌日,頭が柳家金語楼のようになったとしても私は絶対に後悔しない。

うーん,イエイ。

Roll With It

2011年12月11日

私の中では,スティーブ・ウィンウッドのRoll wtih Itは,スイスのベルンの街と結びついて記憶に残っている。ベルンにいたときに,タイトル曲がヒットしていて,至る所で聞こえてきたことを憶えている。ベルンには,ケルンへの留学中に1か月ほど住んだことがある。懇意であったベルンのアルツト教授が宿舎を手配してくれて,宿舎と研究所を往復しながら,博士論文の責任論のところを書いていたはずである。Roll with Itが出たのは1988年の6月のことだというので,私がベルンにいたのが1988年の8月だとすると,ちょうど計算が合う。

ちょうどそのときだったと思うが,たまたまトゥーン湖まで出かけて,そこで電車に乗り合わせた日本人家族と知り合いになって話をした。博士論文執筆のために四六時中机に向かう毎日,ほかのことはする時間がない,というようなことばかりしゃべって,「外国で勉強ばかりとは大変ですねえ」などと言われて別れ,ベルンに街に戻って,その日の夜,当時よく立ち寄ったゲームセンターでいつものように,ヘリコプターで爆撃しまくるゲームを1ゲームだけやって出てきたところ,その家族に偶然再会して,気まずかったことを憶えている。そのゲームセンターが,ビキニの女性が踊る絵などを正面に出した,かなりケバケバしい店構えであったこともあって恥ずかしく,ほとんど会釈もしないで逃げてきてしまった。どういう訳か今でも思い出して恥ずかしい気持ちになることがある。でも本当にゲームセンターだったんです。

そんなことはともかく,私にとり,ウィンウッドはトラフィックのウィンウッドである。中学生・高校生の頃で,それほど頻繁にレコードなど買うことができなかった私は,いくつかのトラフィックのレコードに憧れながら購入の決心がつかず,ようやく勇気を出して買ったのが,かの名盤John Barleycorn Must Dieであった。Gladもかっこよいが,とりわけEmpty Pagesでの絞り出すようなウィンウッドの声にハマって何回も聴いたものだ。そういうことがあったから,Roll with Itのヒットは,かつてのヒーローのリバイバルとしてうれしく思ったのだ。そのアルバムも,ベルンであるか,ケルンであるかは忘れたが,買ったはずである。もうCDの時代であったはずだが,カセットテープで買ったように記憶している。

昨日(10日)は,そのウィンウッドを日本武道館で見てきた。8歳年上の彼が変わらない歌声を聞かせてくれることには大いに励まされる。ちょっと終わりのころは苦しそうだったけどね。それにしても,さらにそれより年齢が上のクラプトンの元気でかっこいいこと。やはり主役は彼のほうであった。あの調子なら70歳を超えても全然大丈夫であろう。耳がほとんど聞こえないというのは本当なのであろうか。

クラプトンは初来日のときにやはり武道館で見たはずだ。私は大学生で,彼もまだ30になったばかりぐらいではなかったか。

そういえば,ベルンのアルツト教授には9月にお会いしたが,相変わらずシニカルで,お元気そうであった。日本では(もちろんドイツでも),「法益関係的錯誤の理論」の発見者として有名である。 

とにかく私も年老いてだんだん友だちがいなくなってきました。年上の皆さんがお元気でないと,さびしくていけませんよ。