This Traveling Boy Was Only Passing Through

2010年5月12日

懇意にしている方の厚意で,ニューヨークのアップルストアで購入されたiPadを入手した。

これは,要するにiPhoneの大型版であるが,無線LANにつながっている限り,すこぶる調子がいい。しかし,とりわけ具合がいいのは,次のような使い方であろう。授業のときに,講義ノートをA4の紙に打ち出し,クリアファイルなどに入れて教室に持っていくが,その代わりにすることができる。また,会議のときなど,ノートパッドを持っていってこれにメモしたりするが,そのようなときにも利用できよう。さらに,ちょっとした講演のときに,カッコつけて原稿をA4サイズの革製の紙挟みに入れて持っていったりするが,これをiPadで代用できる。もちろん,現在ではまだまだかったるいところがあり,使い勝手が悪いが,おそらくかなり近い未来に,そのような形で紙の代用品としてこの種のものが普通に使われるのは確実であろうと思われる。iPadは1つの未来のイメージを示して見せたのである。

そんなことで,仕事に追われ,特に渡欧を木曜に控えていながら,職場でこれを人に見せびらかしつつ,iPadで遊んでいたりするのである。ただ,昨日,SさんとMさんに見せびらかしていたところ(よく考えると,2人そろってヤンマーならぬ,2人そろってSMだ),地面に落としたのはバチが当たったのかもしれない。だいだいそもそも,書きたいことがないのに日記を書きはじめたのも,すでにiPadをもっていることを自慢したいがためだけのことであるのかもしれない。

もう1つどうでもよいことに気づいたのは,iPadをいじっていて,そしてiPhoneをいじると,ものすごく小さくて可愛く感じることである。きゅっとコンパクトになった精密機械という感覚をもつのである。またiPhoneに惚れなおすということになる。

ということで何年か前は肩身が狭く,ついにウィンドウに乗り換えざるをえないかと何度も思った長年のマックユーザーとしては,こうしてMac製品をいじりながら,Mac一途でよかったと思う。今から20年前のことだったが,偶然,田町駅前の本屋で見たMACLIFEという雑誌に載っていたSE30に魅せられて,プリンターと一緒で60万円以上したのを買い込んだことからはじまったMacとの付き合いは,裏切られることなく,今日まで続いている。

1つ大きな進歩だと思うのは,次のことである。私どものように基本的に文章を書くことにしかパソコンを使わない人間にとっては,ノートパソコンで十分であり,いつしかデスクトップ型のパソコンは使わなくなった。そのことがもたらしたのは,急にブレーカーが落ちたりしても,作業に影響がないということである。かつては,そのたびに文章やその一部を失ったりしたものだ。今の若い方には想像できないかもしれないが,フリーズとブレーカーの両方のリスクを抱えながら仕事をしていたのが,フリーズもめったに起こらなくなったし,ブレーカーが落ちても大丈夫になった。一行書いては保存,しばらく忘れていてフリーズ,あちゃーというような時代は,松田聖子とともに去っていったのだ。

ということでつまらない日記になったが,ごめんなさい。タイトルはポール・ウィリアムスの作った曲で,アート・ガーファンクルがカバーしたTraveling Boyの一節。文字通り旅愁漂う名曲です。なお,明日は旅行の準備で忙しく,残念ながらコメントに反応はできないと思います。お許し下さい。