Befiehl dem HERRN deine Wege und hoffe auf ihn, er wird's wohl machen.

2011年10月6日

いまドイツでは,例のシーラッハの新しい小説の影響で,コンメンタールで有名なドレーアーが再び「脚光」を浴びるに至っている。それにしても,あれだけ過去のことにうるさいドイツで,相当のことをした人間が戦後も活躍できたことには不可解さがある。また,あの意思自由に関する大著は何だったのだろうと思う。ただ,今そういう目で読み返せば,また違った本として読めるのかもしれない。

ところで,先月,恩師を失った。彼は,ヴェルツェル直系の正統派の刑法理論家として,ドイツ刑法学の黄金時代の最終期を担った学者の一人であったといえよう。ボン大学において,ヴェルツェルの助手を務め,消極的構成要件要素の理論を批判する博士論文と,名誉毀損罪の根本問題を論じた教授資格論文を書いた。当時は,アルミン・カウフマンとシュトラーテンヴェルトという同門の二人の俊秀の陰に隠れた存在であったかもしれないが,その後,ヴェルツェル理論の基本的枠組みをほぼ忠実に継承する路線を強力に推進し,規範対象の所与の構造を理論的基礎として人的違法論と厳格責任説を導くその立場から,他説(とりわけ新規の理論)を鋭利に批判する論稿を多く書き,いわば孤高の論客として誰からも一目置かれる存在となった。

その論稿は,ライプチッヒ大注釈書における有名な一連の注釈を含めて,ほとんどすべてが『刑法の諸問題』と題する,それぞれ1000頁近い,2巻の分厚い論文集にまとめられている。1巻目が70歳を記念して1999年に,2巻目が80歳を記念して2009年に出版された。上記2著を含めて,この4冊の本で彼のすべてが残されたことになる。

教科書は書かなかった。ただ,「大人向きの刑法総論教科書」を書きたいと何度も語っていた。私にも,早く教科書を書くようにと勧めた。ただ,彼は,ヴェルツェルからその有名な教科書の改訂を依頼されたことがある。ヴェルツェル(およびその夫人)のほうで,アルミン・カウフマンのほうがいいかどうかと迷ったりしたことに憤って,ついにその依頼を拒絶した。間違いなくもっとも適任であった彼が改訂を引き受けていれば,当時最も広く読まれていた教科書は,現在でも読み継がれていた可能性がある。

彼は,日本人研究者とも親しく交流し,日本の刑法学の内部事情にも明るかった。20年近く所長を務めたケルン大学の「刑事法研究所」は,一時期,日本からの留学者を最も多く受け入れていた。私は、園田寿さん(現・甲南大学)と同時期にそこにいた。私の記憶に間違いがなければ,4度来日した。初来日の際に日本刑法学会大会で講演し,懇親会席上で,「ここに来て,ドイツの刑法学者会議で会うよりも,もっと多くの知己に会えた」とうれしそうに語っていた。自らリーダーシップをとり,1988年に初回の「独日刑法コロキウム」をケルン大学で開催した。

彼は,一昨年体調を崩し,一時は治療が功を奏したものと見られたが,今年になって病が再発した。それでも,私が7月はじめに自宅にうかがったときには,ほぼいつもと変わらない様子で,2つの論文を準備していること,「大人向きの刑法総論の教科書」を書く希望を捨てていないことなどを語っていた。しかしその後,急速に体力を失い,ケルン大学病院に入院して治療を受けていた。実は,なくなったその日,9月9日,私は,偶然にもケルン大学にいた。会議の合間を縫って,お見舞いすることが可能かどうかの回答をもらいに,かつての刑事法研究所を訪れたところ,訃報を伝えられたのであった。

会議に戻る気になれず,かといって他に行くところもなく,小雨の中,市電の駅と大学の間を,意味もなく何度も何度も往復しながら,ドイツに来るたびにケルンの自宅を訪ねること以外には,何の恩返しもできなかった無念さにただただ唇をかみしめるほかはなかった。

ハンス・ヨハヒム・ヒルシュ教授は今,彼の学問的故郷であるボン大学そばの墓地に眠っている。