好きよイスタンブール

2010年6月3日

おそらくわが生涯の中でもっとも忙しかった一か月が終わり,6月に入った。ぼおっとした頭で土曜日のお昼にトルコ航空機に乗り込むと,そこではじめて日程を確認し,自分がどこに行くのかをはっきりと認識する。飛行機の中で,イスタンブール空港に着いたら,まずは両替して,タクシーでノボテル(という指定のホテル)に向かおうと行動パターンを頭に焼き付ける(そうしないと,ときどきとんでもない失策をやらかす)。ところが,到着が2時間遅れで,しかも夜の10時過ぎであったにもかかわらず,学生らしき若者が看板を掲げて迎えに来てくれていた。用意されていた車でホテルまで送り届けてもらい,一安心。窓から暗く見えるトルコの景色は,日本の港町のような趣がある。こうして,3日遅れで会議に参加した私も,完璧な待遇を受けて,昨日,イスタンブールからアンカラに移動,明日は帰国ということで,旅行の終盤を迎えた。

34か国が参加する,トルコ刑法制定5周年記念の国際会議。欧州連合への加入を希望するトルコの外に向けての宣伝という側面もあるであろうが,国内の諸条件に配慮しつつ,しかし,周辺諸国と情報を交換しつつ,ドイツを主たる教師として法システムを積極的に改革しようとしている。すでに廃止されている死刑の問題では,それが拷問と一緒に扱われる。「人間の尊厳」が高唱され,中国からの参加者とともに,私なども弁解ないし防戦を強いられることとなる。

招待者の人選は,影響力の大きいドイツの研究者の推薦によるものと推測される。マックスプランク研究所(フライブルク)に関係する人が多い。したがって,ドイツ語を話す人も多く,公用語の1つはドイツ語。だから私なども参加できたということでもある。私については,トルコと関係の深いハンス=ハイナー(キューネ)による,トルコ側と私の双方への強い勧め(というか半分強制)により,参加せざるをえない状況に陥ったということがある。もちろん,イスタンブールアンカラへの旅行など,自分から積極的に出かけようとする気にはならないであろうから,ここに引きずり出してくれたことには,とにかく感謝するほかはない。

私は日本の刑法改正(特に,刑事制裁に関する改正)について話した。こういう会議への参加は,自分のペーパーの準備をどれだけ周到にしておくかにより,その前後・途中の楽しさが決定される。今回は,他の仕事とともに,ゴールデンウィークを完璧につぶして(たった20分の口頭報告であったが,原稿はもっと長い)それなりの準備をしていたので,その限りでは,安心して旅行と会議を楽しんだ。私のセッションでは,チェコの人とロシアの人と3人で,それぞれ20分ずつ話をしたが,質問はほぼ私のみに集中したので,それなりに私の話は理解されたということであろう。ドイツ語による質疑応答は難しいが,この5月中の3回目の講演だったので,さすがにドイツ語による対応力はほぼ留学時代のそれにもどってきている。何とか舌もほぐれて,まともな対応が可能であった。このまま1月に3回ずつでも経験を積んでいったら,かなり楽になるだろうなと考える。他の外国人たちは,あまりドイツ語がうまくないのに,質疑応答ではけっこうしゃべりまくるのだ。こういう点は日本人も見習わなければならない。

会議には,カザフスタンとかキルギスタンとかクルジアとか旧ソ連邦の国の人が来ていて,仲良くなった。世界地図でトルコの位置を確認して妙に納得した。アジア系の顔をしているので,親近感が湧く。カザフスタンのある大学の刑法研究者が数人いて,彼らと盛り上がり,ちょうどその大学の総長もいたので,わが勤務先と学術交流をしたいというような話になった。しかし,私の英語力もすさまじいが,彼らの英語力もすごいものがあり,これで意思疎通をしようというのが困難である。カザフスタンの人口とか場所を確認するだけで1時間ぐらいかかった。3年間ぐらい話をし続けないと,刑法の話まで行かないであろう。

こうして34の国の1つとして,こういう会議に出席していると,自分の無力さを痛感する。因果関係の相当性とか,過失犯における予見可能性とか,少し議論を知っていても,こういうところでどれだけの意味をもつか。そもそも日本の刑法のことを少しばかり知っていることが,ここでトルコやその他の国々の人にどんな意味があるのかわからない。彼ら・彼女らの関心は,われわれがどうでもよいと感じているようなところに向けられる。あるオランダ人の年配の研究者から,「刑法と仏教」の関係を問われ,まったく関係がないと答えたら,「残念だ」といわれて変な顔をされた。会議のポスターに並べられた34の国旗の中に日本の国旗が含まれているところに,自分が出席していることの唯一の意味があるといってもよさそうである。

無力であるのは知的側面に限られない。いま髪の毛が長くてめちゃくちゃ気になっている。忙しくて髪を切りに行く暇がなかったので,どんどん長くなった。爪もまたのびていて切りたいが,爪切りがない。こうして,ホテルの窓からアンカラの夜の町を眺めつつ,髪と爪を切りたいと思いながら,それを切ることさえできない私は,あまりに無力である。