The End of a Love Affair

2007年7月6日

慶應義塾大学出版会のウェブサイト上に、ヴェルツェルの学統につながるなんて書いてしまった。よかったら、読んで下さい。
http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/law/riron/sp.html

ヴェルツェルといえば、勉強机にいちばん近い本棚のところに、晩年に出た彼の論文集がある。Abhandlungen zum Strafrecht und zur Rechtsphilosohie, 1975である。この本については思い出がある。これは大学院生の時に買ったものであるが、その日は休日で、何かドイツの原書がほしいと急に思い立って、東京駅そばの「丸善」に行くことにしたのだった。母にそのことを言うと、かなりの額のお金を手渡してくれて、勉強のことで金を出し渋ってはならない、という趣旨のことを言った(なお、当時、うちは父親が失業中で、定収入がなかった)。

丸善の数少ない法律書の前に立つと、そこにヴェルツェルの論文集があった。輸送の途中で何かあったのか、表紙が少し曲がっていたが、欲しいと思った。ところが、値段を見ると、2万2400円とある。これにはびっくりした。それでも、財布を見ると、ちょうど足りる額が入っていた(今と違ってクレジットカードみたいなものがあるわけではない)。運命のようなものを感じて、一大決心してその本を買ったのである。本棚のところで、「よしっ」と声を出したと思う。今でも裏表紙をめくったところに小さく鉛筆で書かれてある「¥22.400」を見ると、当時のけなげな決心のことを思い出す。

この本は大変な論文集である。私は、他にこれ以上のものを知らない。ロクシンの『正犯と行為支配』もすさまじいが、あれは稀代の天才の手になるものとはいえ、1つのテーマについての研究書であり、若き日の力仕事である。この本には35年の思索が凝縮されている。時間があれば、もう1度、うなりながら365頁を読み通してみたい。古い論文には「総統の意思に従って」なんて言葉も出てくる。しかし、時代思潮に流されて読むに堪えない文章などは出てこない。それがメツガーなどとの大きな違いだ。

この本が出た頃、彼はもう、認知症が進んだ状態であったという。古稀記念のパーティで、趣旨の明らかでないことを話し出して止まらず、夫人に制止されたというのは有名な話である。定年後も大学で法哲学の講義だけを細々と続けていたが、彼の『自然法と実質的正義』をただ読上げるだけで(ただ、その本も想像を絶する名著である。これだけの教養なくして法哲学を語るな!)、学生も10人ほどしかいなかったという。たまたま訪ねられた福田平先生が講義の途中に静かに入室したところ、急に話をやめて、「あー、福田さん。この人は私の弟子なんですよ」なんて話しはじめて、福田先生も痛々しい限りであったと語っておられた。

この点でも、私はヴェルツェルの後を継ぎそうな気がする。あと10年もすると、あらぬことを口走りそうだ。恐いのは、他人の悪口と下ネタの連発だ。そのときには、弟子のJ大学のT君あたりに、思い切りはり倒してもらおう。やさしいK大学のS君にはそれは期待できないであろう。やはりT君が頼りになるであろう。