With Love, from Sie to Du

2006年11月8日 

ドイツ語のような言語では、ファーストネームで呼びあう間柄であるかどうかで、相手が主語になったときに動詞が異なる。考えてみると、Sieの話し方とDuの話し方の2種類しかないというのは、基本的に身分や地位の区別がそれほどなく、比較的平等な社会であることを示しているのかも知れない。日本には、立場や身分の違いで、複雑な言語体系が存在しているが、それは社会における人間関係がまだ平等でなく封建的であることを反映しているのであろう。あるドイツの教授と話していて、IchがIch1つではなく、「わたくし」とか「ぼく」とか「わたし」とか「おれ」とか「こちら」「あちき」「わがはい」「あっし」とか色々あるのは、自我が分裂していて、確固たる自分が出来ていないことの証拠である、それだからこそ、日本人は外国人に対して卑屈なところがあるのだ、などといわれた。当たっている面があるのかも知れない。

それはともかく、ドイツでは、子どもや生徒はもちろん、大学生はみんな仲間だから、いきなり「僕」「君」の親しい言語体系からはじまる。これに対し、大人になってからの付き合いでは、「あなた」から「君」への転換はかなり大仕事である。厳しいルールがある。

男女は比較的簡単である。ドイツのテレビとか映画を観ていると、最初のラブシーンの前後で、さりげなく文法が変わる。かっこいいと感じる。男同士だと、年上がプロポーズするのが決まりである。もちろん断られることもあり、プロポーズには覚悟がいる。夜ワインを飲みながら、とかが多い。マルコムの名著『ウィトゲンシュタイン』(平凡社ライブラリー版)の45頁を見よ。その手紙の文章は、まさにプロポーズにほかならない。英語版では分からないが、そのドイツ語版を見ると、この手紙を境に文法が変わっている。

私もそういう男同士のプロポーズを何回か経験しているが、夜一緒にワインを飲んでいて、年齢の話になったら、まず「儀式」が始まると思ってよい。ただ、年齢が離れすぎていると、けっこう苦しいものがある。私の恩師の中で、ベルン大学教授であったアルツト(Gunther Arzt)教授は、はじめての留学時代に強烈な影響を受けた大先生であり、畏敬の念を抱いている。あるとき、さあファーストネームで行こうと言われて、もちろん同意したが、今でも大先生に「グンター、君元気かい」なんて呼びかけるのは、心の中で大きな抵抗を感じる。やはり日本人なのである。

日本では、少なくともわれわれの年代でファーストネームで呼びあう関係は(夫婦を除くと)稀であろう。園田寿さん(現在、甲南大学)は、私のことを「まこっちゃん」と呼ぶが、「まこと」と呼ぶことはない。こちらが「ひさし」と応えるようなことにでもなれば、かなりヤバい事態が到来したということであろう。

ところが、である。バスケットボール部は選手たちを基本的にファーストネームで呼ぶのである。硬派な体育会であるのに、男子チームも女子チームもそうであることはなぜなのか、最近のことなのか、昔からそうなのか、ぜひ知りたいものである。ただでさえ学生の名前を記憶するのが苦手な私としては、「たいじ」とか「こうすけ」とかファーストネームまで把握するのはなかなか大変である。呼び捨てにするのは抵抗があり、「たいじくん」とか「こうすけくん」とか、君付けで呼ぶのが限界である。

特に女子チームについては、いまだに心理的抵抗が解消しない。かりに彼女らに三田キャンパスで会ったとする。「アンナ、まだあそこ痛むか」とか、「アサミ、この間は良かったぞ」なんて話しかけたとする。そんな場面を、他の教員や学生が見かけるとすれば、これはかなりヤバい事態が到来するのではなかろうか。もちろん、彼女らは「まこと、大丈夫よ」「まこともすごく良かった」などと応えるわけではないが。