Visions of Johanna

2006年10月27日

ボブ・ディランについての記録映画「ノー・ディレクション・ホーム」(マーティン・スコセッシ監督)の中で、アレン・ギンズバーグが「激しい雨が降る」をはじめて聞いたときに泣いたと回想する感動的な場面が出てくる。当時のことを思い出し感極まって言葉を詰まらせているようにさえ見える。たしかに、「激しい雨」や「女の如く」などは涙が出るほど素晴らしい。なぜこんなに人を感動させ得るのかが怪しく思えるほどだ。あえて分析すると、詞のかなりの部分が「ツボにはま」って共感できるのであるが、それは全部ではないので、よく理解できない部分を理解したいという衝動が働き、何度も聴きたくなり、心から離れなくなる、こういった感じなのだ。

たとえば、「ライク・ア・ローリング・ストーン」は、2004年にアメリカの音楽ジャーナリストの投票でこれまでのロック音楽で最高の楽曲に選ばれたそうであるが(なお、グリール・マーカスの本はドイツ語訳で読みはじめたが、つまらなくて半分ほどで投げ出した。自分の感受性がないのかとも思ったが、ドイツGoogleでも恐ろしく評判が悪いので安心した)、その歌詞は、国や政府をテーマとしているようにも読めるし、自分をふった女性か、過去羽振りのよかったライバルのことを歌っているようにも読めるし、年老いた自分を自虐的に語っているようにも読める。ある程度はツボにはまるが、完全にははまらない。ことばの内容があいまいで多義的にできているぶん、それだけ多くの人々がそれなりに感情移入できるようになっていて、誰にでもツボにはまるが、完全にははまらない。ここにボブ・ディランの悪魔的魅力があるのではないか。

最新作の「モダン・タイムズ」も、ある程度聞き込んでみたが、歌詞が抽象性を増している感じがある。ツボにはまるとしても、全体の歌詞のうちの2行ぐらいだけだったりする。「ジョアンナのまぼろし」のような曲を聴きたいが、もう彼にはかつてのような詩は書けないのであろう。いやむしろ,われわれの方が変わってしまって,彼の言葉の届かない場所に行ってしまったのかもしれない。