Johannes-Passion

2007年4月7日

今日は(もう昨日となる)、バッハ・コレギウム・ジャパンヨハネを聴く。鈴木雅明さんがパンフレットに書いているように、マタイは、ど派手でドラマチックであり過ぎるから、むしろヨハネに軍配を上げる人も多いのであろう。それでも、ストーリーに入り込むと涙腺がゆるんでしまう。ペテロが鶏が鳴く前に3度イエスを知らないという下りが、なぜこんなに人を泣かせるのかと考えると、やはり人間の弱さ・情けなさ・ちっぽけさがそこに象徴的に描かれているからなのだろう。また後のペテロの強さと重ね合わせて感動してしまうのであろう。

あまり涙を流しているのはどうかとも思い、危なくなってくると、まったく別のことを考える、という非常手段に出ることにした。あえて音楽を聴かずに、聴衆に目をやった。舞台の後方にも席があるのだが、その中央の初老の男性の聴き方に注意をひかれた。ハンカチを握りしめ、額にしわを寄せ、ときどきはハンカチを口のあたりにあてて、要するに感極まっているのだ。涙が頬を伝っているに違いない。そんな表情を見ていると、かえってこちらももらい泣きしそうになって、その人の方は見ないことにした。ところが、しばらくして、ふとその人を見ると、何と口を開けて居眠りをしているのだ。思わず、おいお前、ふざけるな、キリストを冒涜するのか、と叫びたくなる。まあ、こちらも、涙が出そうになるからといって、別のことを考えているのだから、心の中では冒涜しているのと同じだ。終了後に、注意して聴衆を見ると、ハンカチを手にして涙をぬぐっている女性が何人もいた。あんた方はエライ。私のように(校正)地獄に落ちることもないだろう。

指揮者の鈴木雅明さんは京王線でもう数回見かけたことがある。話しかけたい誘惑にかられるが、勇気が出ない。素晴らしい人格者だというイメージをこっちが勝手に作っているから、話し方が下品だったり、いきなりわい談でもされたら、困ってしまうということもある(そんなことはあり得ないか)。ちなみに、同じ京王線の東大の佐伯仁志さんにもたまに会う。この2人だけとは何か因縁があるようだ。

キリスト教つながりでは、先日、オーメンのリメイク版(2006年?)をDVDで見た。当時、オリジナル版は、殺しの美学がモチーフと理解して見たが、リメイク版もそれは維持されていてなかなかよい。しかし、聖書とキリスト教がからむと、とてつもなくこわい。善人がみなやられていく理不尽さにもやるせなさを感じる。それより何より、デミアンの父とカメラマンがイタリアの片田舎の墓場に出かけて墓石を開けるところがどうしても解せない。ものすごく不自然に感じる。どうしてそんなこわいことができるのか。私だったらイタリアなんかに行かずに、ひたする逃げると思う。おそらく日本の寺院で坊さんになるのがいいと思う。さすがに悪魔も追っかけてこないだろう。来たら木魚をたたいて対抗するほかない。これなら、判例も防衛行為の相当性を肯定するであろう。

おっとやばい。もう2時30分だ。明朝は土曜ながら1限から医事法の授業。もう休むことにしよう。おやすみなさい。オーメンの夢を見ませんように。