I Wanted To Say

2006年11月2日

この数日間呻吟した刑事法ジャーナルのための連載原稿をようやく編集部に送った。本当であれば、読まなければいけない文献がいくつもあることはわかっており、考えなければいけない論点がいくつも残っているのはわかっているけど、手から放す。30代の頃までとは異なり、こういう手からの放し方が原則となってしまった。壮絶な間違いをして恥をかくかも知れないが、恥をかいて失うほどのものなど何もない。

論文を書く過程で、PTSDについて考えていて、弟子の薮中悠君が昨年提出した修士論文を読み直し、それを読んだ当時にはまったく論点を把握しておらず、もちろんよい論文として高く評価したものの、とうてい正当な評価ではなかったことが判明した。こっちが考えていたよりもっともっと素晴らしい論文であり、もっともっと適切なアドバイスがあったはずなのだ。先ほど、謝罪のメールを出したが、彼にとっては空しいことだろう。

こういうことはほかにもあるはずだ。年中、博士論文の審査、修論の指導と審査、さらに、通信教育部学生や学部ゼミの学生の卒論の指導などなどをしていれば、それぞれに割くことのできる時間は限られている。本当であれば、あわせて読まなければいけない文献がいくつもあることはわかっており、こっちも真剣に検討しなければならない論点がいくつも残っているのはわかっているけど、あるところで手から放す。そうしなければ、仕事のすべてに対応することはできないからだ。

大学の「教員」もまた、発展途上の学生の1人にすぎない。教育、指導、審査などなどというような言葉はいっそやめにして、「一緒に勉強すること」、「一緒に考えること」、「感想をいうこと」に置き換えるべきであろう。